Stacks Image 7

参考文献 、ウェンヨン&ギャンブル 、水戸芸術館、水戸、日本(1992)・筑波大学附属図書館所蔵の本54冊のホログラム

 古今東西の書籍は、人類の知識の宝庫であるとともにその装丁は、工芸品としての美しさをももっている。たとえば、金銀や宝石を装飾的にちりばめた聖典も存在しているほどだ。しかし、どんなに美しく内容の豊富な書籍であっても、言語のコード(規則)を共有していなければ内容を読み取るとはできない。つまり異なった文化圏の書物は、その言語を習得していなければ読めない(私はアラビア語の本を読むことはできない)し、歴史の彼方に消え去った言語で書かれた書物も読むことができない(私は古代エジプトの象形文字を読むことはできない)。
 いっぽう、物としての書物は、そこに使用されている言語には関係なく、私たちのフェティッシュな感覚を刺激する。王侯貴族が所有したような豪華本とまではいかなくても、市販されているごく普通の本であってもだ。だから私たちは、実際にはすべてを読まなくても、本を集め、本棚に並べ、背表紙をながめ、多くの場合、それで知識を所有したような気分になるのだ。
 さて、ウェンヨン&ギャンブルの作品において、短冊型の画面の中に見えるものは、彼らが大学の図書館で見つけ、その内容か表紙かタイトルに興味をもった書物の背表紙である。それは、厚みのない二次元平面に封じ込められた三次元の空間だが、写真や絵画の映像のように不動のものではない。ホログラフィで作り出す彼らの映像は、見る角度を変えれば見え方も変化するのだ。だから壁の中に実物の本が閉じ込められているように錯覚して、思わず作品の裏に回り込みたくなる。しかし、それはもちろん不可能だ。数ミリの感光板の裏側があるだけだ。
 先ほど、書物はそこにどんな重要なことが書いてあろうとも、その書物に使われている言語のコードを知らなければ、ただの紙の束になってしまう、と言っておいた。実物のようにリアルに見えながら、手を伸ばしても取ることができないホログラフィ映像のもどかしさは、書物に託された情報とその受容との間に横たわる困難さを暗示しているかのようだ。これは、日本という異文化のなかでの生活を体験した彼らが、コミュニケーションの大切さと困難さを視覚的に表現したものであるのかもしれない。
 しかもホログラフィという技法自体、まだまだ専門的な知識と設備を必要とする技術であるから、触ることも、(背表紙に書いてある言語を知らない人にとっては)読むこともできない本を題材とした作品は、共通のコードを失った現代の人々の間に存在する「封印された知識」の象徴なのである。
 
水戸芸術館現代美術ギャラリー 浅井 俊裕
 私たちの作品を水戸で公開できるのは、たいへん喜ばしいことです。なぜなら、私たちは、1990年4月から1992年3月まで筑波大学で教鞭を執っていたので、水戸芸術館にも何度か行ったことがあるからです。また、その近くの益子にある浜田庄司氏の家を訪ねたりもしました。バーナード・リーチが書いた浜田氏についての本を大学の図書館で見つけたのはそんな時でした。
 最初に来日したとき、私たちは自分たちが見聞きする新しい文化を作品にしようと思いました。そのために、異文化に対して決まりきった対応をするのではなく、日本の文化に馴染もうとしたのです。しかし、言葉の問題と、異文化を自分たちの文化の視点からのみ見ていることが障害となりました。私たちの視点は、決して公平ではないからです。いっぽう、物理的な物としての書物は、魔法の窓のように、文化と文化の間のコミュニケーションの道を開きます。書物は、誤解を招くかもしれないし誤訳を生むかもしれませんが、個々の知覚を離れた物としての書物そのものは、どこに行っても同じだからです。
                             1992年9月
スーザン・ギャンブル
マイケル・ウェンヨン